聴くチカラには、レベルがあります。
人のお話から、相手の気持ちを汲み取り、
価値観を知り、ニーズを知り、問題を知り、解決の糸口をつかまえる。
優れた「聴くチカラ」を持った方にはこのようなことが実際に可能です。
「この人に話を聴いてもらうとスッキリする」
「勇気が湧いてくる」
という人は実在するのです。
特別なトレーニングをしていなくても、です。
一方で、傾聴という言葉が世の中ですこし、知られてきまして、
傾聴ボランティア講座とか、管理職のための「傾聴力講座」とか、
ちょっとしたトレーニングを受けた方は数多くいるようです。
おそらく傾聴という言葉の定義を知り、
傾聴って、アドバイスしないで一生懸命きいてればいいんでしょ?
というくらいの認識の方も増えているということだと思います。
当然ですが、こういう方を相手に話をしてみても、
ただ「うんうん」「ふんふん」と聴いているだけで、意図的には何も起こせません。
このことから、「傾聴」は無意味だ、
と考える向きもあるようですがそれはとても残念なことだと感じます。
傾聴に、力がないのではありません。
その方が身に付けるべき傾聴力が、まだ不足しているということです。
目標なき傾聴(のようなもの)は、
「良かれと思って」の、善なる行動であって、技術ではありません。
技術も認識も足りなければ、場合によっては相手を傷つけますし、
自分もつぶれてしまうリスクもあります。
ただきくだけでは、聞き流しているのと同じです。
実質ほぼ聞き流しているだけでも、「聴こう」という気持ちがある場合は、
その方の善なる気持ちに触れて、
何らかの癒しや信頼関係が生まれることもあり、
それは尊いことなのですが、
本当の「聴く力」は、そういう博打のようなものではないのです。
ただきいているだけ、という状態の困ったところは、
実際には、
話している方が何に困っていて、どんな気持ちで、どうなったら解決なのか、
解決を阻んでいる心理的障壁は何なのか、
つまり「話の本質」や「その方の大切にしていること」を理解しきれていないことにあります。
ひどい場合には、理解していないのに、勝手に決めつけた「解決案」を提供しようとしたりします。
仮に、それが誰かにとって実際に役にたつ解決策の一つだったとしても、
問題の本質に辿りついていない時点で他人からもたらされた解決策では、
本人の力にはなりません。
「聴くチカラ」の本領は、相手の心の成長です。
人間は、自分の心が理解できれば、次の行動は自分で決められます。
それを信じて、相手が自分の心が理解できるように、鏡のように話を聴く。
すると、気持ちを整理することにつながり、
もやもやしていた心が晴れて、
次の行動を自分で決められる勇気が出る。
これが聴く力の持つ本当の可能性なのです。